カルナップ『言語の論理的構文論』

【カルナップのテーゼ】

「準−構文的な述語が、形而上学の温床となる」
「われわれが哲学に帰属させているものを構文論の中で扱う」

【述語の種類】(『クワイン』p36)

1. 記号−述語*1       :構文論的な述語*2
                 :構文論でない記号−述語*3
2. 記号−述語でない述語 :準−構文論的な述語*4
                 :それ以外の述語*5

【「準−構文論的な文」が、形而上学の温床となる】(『クワイン』p40)

哲学者達が、言語外の世界について語る文だとみなしている多くの文は、実は「準−構文論的な文」である。よって、それは経験的に決まるのではなく(経験的真偽)、構文論的な特徴においてのみ真偽が決まる(論理的真偽)。

実質話法
準−構文論的な文を使った、あたかも対象そのものについて語るような語り方。
形式話法
構文論的な文を使った、記号について語る語り方。

形式話法でなく、実質話法で語ろうとする時、哲学的な困惑が生じる。例えば、

「太郎は2冊、花子は3冊本をもっているので、二人合わせて7冊という事態は不可能だ」

という文は、あたかも世界についての経験的事態について語っているように思える。
そう考えると、現実とは別の可能性の領域ならば可能かもしれない、といった形而上学的世界を想定する誘惑に駆られる。しかし、この文のような、実質話法における準−構文論的な文を構文論的な文「『太郎は・・・7冊になる』という文(記号)について、『その文は矛盾している』」に変換すれば、実際には経験的命題でなく、論理的命題に過ぎないことがわかる。こうすれば、可能性の領域とか形而上学的世界や存在者を想定してしまう誘惑を断つことができる。

「多くの哲学的な言明や論争は、実質話法で述べられると、何か言語外の対象に関する絶対的な真理を主張しているように、あるいは絶対的な真偽について争っているようにみえてしまうのであるが、しかしカルナップによれば、それをそれと等値な形式話法に翻訳すれば、実は問題は言語の構文論に関わるのであり、したがってそれは、言語に相対的なのだ」 (『クワイン』p44)


【構文論的な規則は相対的である】(『クワイン』p43)

どの構文論が正しいとは言うことができず、選択は任意である。
例えば、物体的対象の存在について、「物体は認識者と独立に存在する」(実在論者)と「物体とはセンス・データからの構成物にすぎない」(現象主義者)の対立は、両者の選択した構文論の違いに過ぎず、どちらが真とは客観的にはいえない。前者は「物−語」を原初記号とする言語を採用し、後者は「センス・データ−語」を原初記号とする言語を採用した、言語の選択の違いである。どちらが正しく世界を記述したかとは問えない。

このように、様々な哲学問題は、いかなる言語(構文論)を規約として採用するかという任意の選択の問題に解消される。

論理実証主義との相違】(『クワイン』p45)

論理実証主義
検証可能性*6によって文の有意味性を判断する。

  カルナップ

「哲学とは、言語の恣意的な選択の問題、取り決め、規約の問題であるとする。*7われわれが哲学に帰属させているものの大部分は、構文論の中で厳密かつ明確に扱えるとする」

*1:「記号−述語」とは、記号について述べられた述語である。例えば、1.「富士山は日本一高い山である」、2.「『富士山』は漢字三文字からなる」の2における「〜漢字三文字からなる」という述語がそうである。この述語は、富士山という実在の対象を記述したのではなく、「富士山」という語(記号)についての述語である。一方、1は実在の富士山について記述する述語である。いわば、経験的命題でなく、論理的命題であろうか。

*2:「記号−述語」の述語のうち、記号(語「富士山」)が指示する対象(実在の富士山)のあり方に関係なく、文法規約によって決まる述語。例えば、「〜漢字三文字からなる」「「数−語である」「物−語である」という述語。「5は数−語である」は、経験如何に関わらず論理的に真である。

*3:例)「〜は日本一高い山の名前である」。これは「〜」に入る語(記号)について言及する述語であるが、「〜」に何が入るかによって、真偽が変わってくる。経験的命題。

*4:ある「記号−述語」でない述語「F」が「準−構文論的な述語」であるとは、述語「F」に次のような意味で対応するような、ある構文論的な述語「G」が存在する、ということである。その対応とは、対象aについて、「aはFである」ということと、その対象の名前「a」について、「『a』はGである」ということとが、論理的に等値になるという仕方での対応である。例えば、「〜は数である」「〜は物体である」という述語がそうである。「5は数である」という文における述語は記号について記述しない。しかし、この文は、「〜数−語である」という構文論的な述語を使った「『5』は数−語である」という命題と論理的に等値である。よって「5は数である」という文は、構文論的述語に置き換えることにより論理的命題になる。このように、「準−構文論的な文」はあたかも言語外の「もの」(5という数そのもの)を特徴付ける述語のようにふるまうが、しかし、その文の真偽は、その「もの」のあり方に関係なく、名前「5」のもつ構文論的な特徴だけによって決まる。

*5:例)「日本一高い山である」「赤い」「丸い」

*6:経験的に検証できる命題(科学的命題)のみが認識論的に意味のある命題で、検証できない命題は無意味な命題であるとする。ただしこの理論の欠点は、肝心の科学法則自体が検証不可能(=無意味)であるということ。科学法則のような普遍的命題を検証するためには無限にある全ての対象を調べなければならないため。帰納法の原理的欠点。

*7:この考えの問題点は、論理的真理は無限に多くあるということ。よって、「論理的真理は規約に従う」が真であることを示すためには、全ての真理がそこから出てくるような公理系を採用せねばならない。しかし、このやり方では、無限後退に陥り、結局この命題は証明できないことがわかる。(『クワイン』p68)