世界、他我の構成の仕方

   a 現象学における他我の問い方
    b 世界の意味の現れ方(総論)
    c 他我の意味の構成
    d 客観世界の意味の構成


*3a【現象学における他我の問い方】

「他我という意味は、いかにしていかなる志向性によって、いかなる総合において、そしてどのような動機付けに基づいて、私のうちで形成されるのか?」 (『デカルト省察』「世界の名著」42節)

「客観世界をあらかじめ前提とするのではなく、自我にとってのみ存在する<単純な自然>から出発して、この単純な自然から他我や客観世界がいかにして構成されるかを解明する」 (『省察』44節注)

現象学は科学のように、世界の因果の網の目に組み込まれている客体としての他我(他者)を問うのではなく、超越論的主観性において、いかにして(客体としての)他我の意味が構成されていくかを、主観の能作を基に明らかにします。


*3b【世界の意味の現れ方】

意味の発生段階を大まかに分ければ、「(1)(固有領域における)単純な自然 → (2)自我 → (3)他我 → (4)客観世界」です。

1-1
意味が生じる以前の固有領域において、何らかの物体(「単純な自然」)が現れる。
2-1
そこに現れる他とは異なった性質を持つ特殊な物体が「私の身体」として把握される。
2-2
その身体を操る私の心が想定され、身体・心を合一化した私の「精神物理的自我」が把握される。
3-1
私の精神物理的自我(以降、自我と略す)の外側に、私の身体と同様の振る舞いをする物体が現れる。その物体を私の身体との類比において、他の身体として把握する。
3-2
「対化する連合」という根本形式において、対をなす「自我」と「後に他我となるもの」との間で意味の移し入れが行われ、「後に他我となるもの」が自我の意味にしたがって統覚され、他我となる。
4-1
モナド的自我と他のモナド的自我とによる自然の共通化。(間主観的自然)
4-2
他我が、客体的な精神物理的実在として把握される。「他我の身体を物体として捉える根源的呈示の層(3-1)」と「その物体を介して他我の精神を間接的に呈示する層(3-2)」との直接的総合統一によって。
4-3
自我と他我、それぞれが属する自然の同一化。「私が知覚する第一次領域」と「他我の知覚する第一次領域」の二つの層の連合によって、この両者の自然の同一化が起こる。
4-4
客観世界の構成

このように客観世界の存在意味は、固有領域(1)の基盤の上に、第一次領域(2)を始め幾つかの層を重ねることによって構成されます。その最初の層が、他我を構成する層(3)です。(私にとって本来最初の他なるものは他我である)。他我が、すべての他我と私を含む客観世界の構成を可能とします。客観世界がまず存在し、そこに他者が現れてくるのではありません。


*3c【他我の意味の構成】

固有領域(a)では、他者は単なる「物体」として現れます。
その物体の振る舞いが私の身体と「対化」(b)するような「連合」(類比的統握)(c)が働き、そこに身体という意味が移し入れられます。そこで私の自己移入が作動し、それによって他者の経験が私に「付帯現前化」(d) として呈示されるというふうに「他我」が構成されます。このように他我が構成されると、その他我は、私自身の世界が経験している世界と同じ世界を経験するものとして与えられるから、あらゆる人にとって現存する世界、つまり「間主観的世界」を経験することとなります。そこに属する主観は、我々の日常的な事物がそこで様々に意味付与されているという意味で「超越論的間主観性」です。この世界が、客観世界の意味の産出を可能とするのです。

a.固有領域
超越論的主観性において、世界が最初に現れる原初の層。そこに現れる物体にはまだ意味が伴わない。
b.対化
固有領域において現れたある物体が私の身体との類似性によって対をなすこと。
c.類比的統握
対関係をなすもの同士の間で意味の移し入れが行われること。
d.付帯現前化
それ自身では現前することができない間接的志向性。(間接的呈示)。他者の経験、世界を私は直接経験することはできないが、類比的統握により、間接的に他我の現前が可能となる。


*3d【客観世界の意味の構成】

他我の意味が産出された後、私の「第一次自然(e)」と他我のそれとの同一化が、「モナドの共同化」(後述)という志向作用によって起こります(4-1)。その後、意味としての他我を、自己統覚機能によって世界内部の存在とするような実在として客体化し(4-2)、その客体化された自我と他我が所属する世界も同一のはずだと把握されます(4-3)。最終的にその同一化された世界が、客観世界として意味づけられるわけです(4-4)。

e.第一次自然
私の超越論的主観に現れる意味としての自然(世界)。客体としての自然の意味は、この自然の客体化により現れる。


 「自我は、自己自身の存在を完全に超越させる(客体化:ポール)ような存在意味を備えているそのような新しい種類の志向性(モナドの調和)を自らのうちに持っている」(『省察』48節)

 「私自身の自我のうちで構成された他我の行う構成作用を介して私に対して我々すべてにとって共通する世界が構成される」(『省察』41節)

私の第一次自然)と他我のそれ(間接的呈示)との同一化は、現前する事物と想起の内の事物(想起的呈示)との同一化と同様の構造を持っています。


*3d補足【私の第一次自然と他我の第一次自然はなぜ同一といえるのか?】

自我に「モナドの共同化」という志向作用が含まれているからです。「モナドの共同化」とは、モナド(≒主観)は自分達の間で一つの客観的世界を構成し、その客観的世界の中で自分たち自身を、動物存在、とりわけ人間存在として空間化時間化し、おのれを実在化・客体化する働きのことです。なぜそういえるかと言えば、二つの間主観性は、共に私によって構成されたものであるかぎり、それらを構成する原初モナドとしての私と必然的な共同関係の中に立っています。したがってあらゆるモナドの唯一の共同体だけが存在し、それが唯一の客観的世界、つまり一つの自然だけが存在することができます。他のモナドの共存を含む構造が私に備わっているとすれば、この一つの唯一の自然が必ず存在”せねばならない”と考えられるわけです。