「本物−見え」論者からの反論

以上の指摘に対して、唯物論的思考をもつ脳生理学的二元論者は次のように反論するだろう。

「なるほど。我々が知覚している世界は、確かに、脳によって産み出された見えの世界である。それは認めよう。しかし、それが即、観念論に結びつくわけではない。この見えの世界は、何の実体もない幻の世界ではなく、本物の世界を起源に持つ。いわば、本物世界の影だ。影は影のみで存在することはない。影が存在するとは、たとえそれが見えなくとも、本物が存在することを示唆している」

「さらに言えば、見えの世界とは、いわば屈折レンズを通して見られた世界である。我々はりんごを見る。その時、見ている対象は実在するりんごである。屈折レンズ(脳)が無から有を産み出しているわけではない。屈折レンズの向こうにあるりんごが実在しなければ、そもそも我々はりんご(の見え)を見ることはできない」

「我々に知覚されている見えの世界は、本物の世界を起源に持つ。その世界とは、物質世界である。また、我々が知覚することを可能とする脳(身体)も物質でできている。つまり、『我々に知覚されている対象』『我々が知覚を可能とするもの』、どちらも物理法則に則った物質である。ゆえに、この世界が脳によって産出された見えであることと、物質がこの世界の根本原理であることに矛盾はない」

彼らの主張をまとめれば、次の通りである。

「『見えの世界』とは、直接ではないが間接的に知覚した世界、いわば屈折レンズを通して見た世界である。”見えているもの”は本物そのものではないが、”見ているもの”は本物である。『本物−見え』は断絶したものではなく、同じ対象の異なった見え方に過ぎない。人間とトンボに”見えている”りんごは異なっているだろう。しかし、”見ている”対象は同一のりんごである」

この考えに対する疑念は、次の2点である。

   3-1. 「本物−見え」世界に、屈折レンズの比喩は当てはまるか?
   3-2. 「本物−見え」世界から、「本物は実在する」ことを導き出せるか?

次回はまず、3-1から見ていこう。

唯物論者は観念論者か?

現代科学の花形、脳生理学を保証人に持つこの「本物−見え」の世界観は、よく考えてみれば、オカルト的な奇妙さで成り立っていることがわかる。「本物−見え」の世界観とは、簡略化して言えば、「外部にある本物の世界からの信号を私の身体が受け取り、それを中枢コンピュータである脳が加工する。その結果、見えの世界が現れる」ということである。中枢コンピュータに何かの異常が起こると、世界の見えも変化する。それを裏付ける実験例も豊富に存在する*1。その結果、次のように言われる。

   「脳の状態が、世界の見えの在り方を決める」

脳生理学的世界観の持ち主とは、多かれ少なかれ唯物論的思考の持ち主である。つまり、世界の根本原理は物質であり、感情や思考といった心的現象はその派生的産物であると考える人である。当然、心ある生命体がいなくとも、物質は存在すると考える。しかし、よく考えてみれば、彼らのこの考えは己の前提と矛盾していることに気づく。

物質(脳や身体)が心的現象を産み出すと彼は言う。
 彼らが用いる「心的現象」とは何を意味するのか? それは、「感情や思考といった通常いわれる心の働き」だけではなく、我々の目の前にある「物質世界」をも意味する。なぜなら、この世界とは「見え」の世界であるというのが、彼らの世界観の前提としてあるからだ。ということは、「脳が心的現象を産み出す」という言明は、通常心といわれる現象だけでなく、私の身体を含めた世界全体が脳によって産出されると同じことを意味する。*2
ここで、完全なる唯物論は、完全な観念論と一致するという矛盾に突き当たる。
もちろん彼らは、この結果が導かれたことに戸惑いを覚えるだろうし、自らが観念論者と呼ばれることに断固反対する。

ここまでの流れをまとめてみよう。
脳生理学的世界観の前提1.2から、a.bが導かれ、a.bから前提2に矛盾する結論が導かれる。

   前提1 :世界は「本物−見え」で成り立っている。我々が知覚できるのは「見え」の世界だけである。
   前提2 :世界の根本原理は物質である。心はその派生的産物にすぎない。

     a  :脳は心と物質世界、つまり世界全体を産み出す。
     b  :世界を産み出すその脳ですら、脳の観念によって産み出されたものである。

   結論 :完全なる唯物論は完全なる観念論と一致する。*3

*1:ペンフィールドの実験 :てんかん患者の解釈領を電気的に刺激すると、彼の過去の経験がまるで映画のフラッシュバックのようにありありと追体験された。(解釈領:脳の側頭葉にあり、現在の経験を過去の経験に照らして解釈する働きを担う)(『脳と心の正体』第6章) ただし、この追体験はか1なりいい加減と今ではわかっている。

*2:「言われることはもっともだが、あなたは、日常使われる『心的現象』という語を拡大解釈している。それゆえ、おかしな結論が導き出されるのだ。知覚された物は、想像や想起で現れる心象とは異なって、通常、心的現象とは言われない」と批判されるかもしれない。この指摘は、ある意味当たっている。だが私はここで、ある問題を考えたいのだ。それは、同じ心あっての出来事にも係わらず、『想像や想起による心象は実在しない』とされ、『知覚された物は(勘違いがあるにしても)存在する』と分類されることだ。たとえば、想像したパンは実在しないが、目で見て触って疑えないものは存在すると言う。本当にそうなのか? 我々の日常言語においては、この存在分類は正しい。しかし、日常言語が正しい世界を描写していないならば? むしろ、日常言語の規則に引きずられて、ありのままの世界を見逃しているのではないか? 僕がここで、「心的現象」で指す意味を拡大したのは、この問題をも考えてみたいからである。

*3:ここで使用した「観念論」という言葉を僕は、「(私の)世界は観念で成り立っている」という意味で用いました。しかし、「観念論とは、観念的存在が物質的存在の必要条件であると述べるものであり、世界の根本原理を観念と置く論である」という指摘を受けました。それに従えば、僕のこの結論は導かれません。そして、この指摘は正しい指摘だと思うので、ここでの推論を撤回します(記録として残しておくために、削除はしません)。現在は、唯物論者の二つの命題、「物質が世界の根本原理である」と「脳が心を産出する」が果たして両立するのか考察中です。

僕の問い 「本物−見え」の世界観 

さて、新しい場で始めるにあたって、原点に戻って考えようと思う。それは、次の問いである。

   「はたして、脳が心や世界を生み出すのだろうか?」

これは、「物質から心が生まれるのか?」と言い換えてもいい。

通常我々は世界を、「物質」と、感情や思考といった「心」の二つのカテゴリーから成ると考えている(物心二元論*1)。これは、人間から独立して成り立っている世界(本物の世界)と、人間の認識を通して見た世界(見えの世界)を分けることでもある*2。中には、「なんで僕らが見ている世界は本物でなくて、見かけの世界なの?」と疑問に思う人もいるだろう。しかし、生物によってそれぞれの知覚世界が異なっていることを考慮すれば、人間が認識する世界も、所詮人間の知覚を通して認識された見えの世界であることがわかる。そして、人間が己の知覚作用を通さずに世界に接することができない以上、我々はけっして本物の世界を認識することはできない。

世界を「本物−見え」に分離する世界観は、近代哲学から産まれた。反二元論を標榜する哲学陣営から多くの批判を受けながらも、科学理論を支える土台として生き続けてきた。現代脳生理学の華々しい登場によって、科学者だけでなく、”科学的視点で物を見る”*3一般人にとっても極当たり前の世界観となった。

これからここでやろうとすることは、この脳生理学的二元論「本物−見え」の世界は本当に正しいのか?という古くて新しい議論を、自分なりにゆっくりと追ってみることである。*4

*1:世界の存在を「物」と「心」に分類するこの思想は、世界の見方を一つ増やしただけにとどまらず、世界と人間との関係を根本的に変化させた。この思想が現れたのは、ガリレオニュートンらの科学革命と同時期だが、目に見えて変革の顕著な科学革命と異なり、こちらの変化は、ほとんどの人に気づかれないまま、潜在的に心の奥底を蝕んでいった。一体何が起こったのか? それは後に見ることになるだろう。

*2:「物と心」の二元論と、「本物−見え」世界の二元論は、それぞれ存在論、認識論として考えられる。この両者は密接につながっている。存在論的に世界を捉えることが目的であるが、当面はその手がかりとして、認識論的見地から考えてみる。

*3:” ”で強調したのは、日常生活では、科学的視点で世界を見ている人などほとんどいないからである。たとえそれが科学者でも。科学的視点とは、世界を認識する時の思考の枠組みの一つである。しかし、多くの人は、この枠組みだけが本物の世界を描写しているのだと錯覚する。その結果、その枠組み内での約束事が、その枠組みの母体である我々の日常世界を規定する逆転現象が起こる。この議論は別項を設けて述べるつもりである。

*4:当方ただの素人です。ご意見、ご感想あれば気軽に書き込んでください。お待ちしています。

  【  読書ノート  】  

12/6 『経験主義のふたつのドグマ』(W.クワインid:Paul:20031206
12/5 『存在と時間』(M.ハイデガー) id:Paul:20031205
12/4 『世界の共同主観的存在構造 第二部』(廣松渉) id:Paul:20031204
12/3 『世界の共同主観的存在構造 第一部』(廣松渉) id:Paul:20031203
12/2 『意識とは何だろうか』(下條信輔) id:Paul:20031202
12/1 『脳とクオリア』(茂木健一郎) id:Paul:20031201

経験主義のふたつのドグマ

【経験主義のふたつのドグマ】

経験主義とは、カルナップを代表とする論理実証主義者たちの考えを指す。

  1. 分析的真理、すなわち、事実問題とは独立に意味に基づく真理と、綜合的真理、すなわち、事実に基づく真理との間に、ある根本的な分裂があるという信念。
  2. 還元主義、すなわち、有意味な言明はどれも、直接的経験を指示する名辞からの論理的構成物と同値であるという信念。

【ドグマを捨て去ることによる結果】

  1. 思弁的形而上学と自然科学の間にあると考えられてきた境界がぼやけてくる。
  2. プラグマティズムへの方向転換。

【分析的心理と総合的真理の境界の曖昧さ】

「分析性」に明確な説明を与えることにことごとく失敗する。これは、分析命題と綜合命題との間に明確な区別があると考えることが間違いであることを示す。

【還元主義批判】

還元主義
命題一つ一つが個別に一定範囲の経験に対応するという「検証理論」の主張。

クワインの批判は、「個々の言明が、他の言明から孤立して考えられても、確証や反証を受け付けうる」という還元主義の考え方に向けられる。

「外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、一つの集まりとして、感覚的経験の裁きに直面する」(p61)

【ドグマなき経験主義】(p63)

「(科学的命題から日常的な言説まで)われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、科学全体は、その境界条件が経験である力の場のようなものである。周縁部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす」(p63)

周辺部にぶつかってくる経験的言明から、中心部に向かうにつれ、抽象的、非経験的で高度な理論的言明(物理、論理学、存在論)が作られる。中心部に向うにしたがって、いわゆる普遍的な命題となり、この構築物の根幹をなすため変更が難しくなる。この構築物に反する経験的言明が周辺部にぶつかってきても、その周辺部をわずかに変更してそれを取り入れたり、その言明を幻覚だとかいってこの構築物が崩壊しないように守ろうとする。われわれの「保守性」ゆえに、中心部はそのままにして、周辺部だけ変更することにより、体系を壊さないようそれを受け入れる。

ある体系において偽であった言明が、別の体系においては真であることもありうる。その言明の真偽に客観的な基準はなく、それが属する信念体系によって左右される。

「いかなる言明についても、もしわれわれが、体系のほかの部分に抜本的な変更を加えるならば、何が起ころうとも、当の言明を真とみなし続けることができる」(p64)

「すべての経験(実際に得られた経験だけでなく、もし観察したとしたら得られたであろう経験まで含めて)を考慮に入れても、われわれの信念体系という「人工構築物」の内部構造はただ一つに決まるとは限らない*1」(『クワイン』p106)

構築物を大改造する時が、知的革命(たとえば科学革命)である。
基本的には従来の理論を守るという保守的なわれわれが、袋小路に入り込んだり、あるいは従来の理論よりスマートな根本理論を発見した時、科学者は大改造に踏み切る*2

このような大改造が可能なのは、われわれの言語と知識の構造が、各々の命題に一定範囲の経験が必ずしも対応しているのではなく、信念体系の縁に与えられる経験によっては構築物である理論内部の構造はただ一つに決まらないからである*3

このように、何か何の確証や反証になるかは、その特定の経験と特定の仮説を取り巻く「理論的環境」とでも呼ぶべきもの、すなわち、人々が他のどのような信念を持っているかということと、相対的にしか決まらない*4

これは、科学理論だけでなく日常においても同様である*5

【信念体系は神話である】

この考え(ホーリズム)によれば、認識論的身分において、物理理論と神話とは程度の差であり、どちらも文化的措定物である。

「物理的対象の神話が多くのほかの神話よりも認識論的に優れているのは、経験の流れの中に扱いやすい構造を見出す手立てとして、それが他の神話よりも効率がよいことがわかっているためである」*6

「体系の縁は経験と合致している必要があるが、残りの部分は、精巧な神話や虚構をも含めて、法則の単純性をその目標とする」(p67)

命題の真偽は、それに属する信念体系によって検証される。そしてその信念体系は、その体系の周辺での経験的一致、内部での論理的整合性によってのみ保たれる。


(04/3/20)

*1:観察データの決定不全性

*2:たとえば、量子論相対性理論である。

*3:cf)クーン「パラダイム」。『科学革命の構造』は1962年

*4:1「光は粒子である」「光は波動である」が反証されたり、復活したりするのはこの「理論的環境」の変化ゆえである。確証関係が理論的環境(構築物)に依存する。

*5:大森「思い的立ち現れ」「知覚的立ち現れ」。

*6:大森アニミズム。「密画的世界」「略画的世界」の違いは信念体系の違いであって、略画描写によって記述されるものが客観的に偽であるとはいえない。(『知の構築とその呪縛』2章)(p66) 

カルナップ『言語の論理的構文論』

【カルナップのテーゼ】

「準−構文的な述語が、形而上学の温床となる」
「われわれが哲学に帰属させているものを構文論の中で扱う」

【述語の種類】(『クワイン』p36)

1. 記号−述語*1       :構文論的な述語*2
                 :構文論でない記号−述語*3
2. 記号−述語でない述語 :準−構文論的な述語*4
                 :それ以外の述語*5

【「準−構文論的な文」が、形而上学の温床となる】(『クワイン』p40)

哲学者達が、言語外の世界について語る文だとみなしている多くの文は、実は「準−構文論的な文」である。よって、それは経験的に決まるのではなく(経験的真偽)、構文論的な特徴においてのみ真偽が決まる(論理的真偽)。

実質話法
準−構文論的な文を使った、あたかも対象そのものについて語るような語り方。
形式話法
構文論的な文を使った、記号について語る語り方。

形式話法でなく、実質話法で語ろうとする時、哲学的な困惑が生じる。例えば、

「太郎は2冊、花子は3冊本をもっているので、二人合わせて7冊という事態は不可能だ」

という文は、あたかも世界についての経験的事態について語っているように思える。
そう考えると、現実とは別の可能性の領域ならば可能かもしれない、といった形而上学的世界を想定する誘惑に駆られる。しかし、この文のような、実質話法における準−構文論的な文を構文論的な文「『太郎は・・・7冊になる』という文(記号)について、『その文は矛盾している』」に変換すれば、実際には経験的命題でなく、論理的命題に過ぎないことがわかる。こうすれば、可能性の領域とか形而上学的世界や存在者を想定してしまう誘惑を断つことができる。

「多くの哲学的な言明や論争は、実質話法で述べられると、何か言語外の対象に関する絶対的な真理を主張しているように、あるいは絶対的な真偽について争っているようにみえてしまうのであるが、しかしカルナップによれば、それをそれと等値な形式話法に翻訳すれば、実は問題は言語の構文論に関わるのであり、したがってそれは、言語に相対的なのだ」 (『クワイン』p44)


【構文論的な規則は相対的である】(『クワイン』p43)

どの構文論が正しいとは言うことができず、選択は任意である。
例えば、物体的対象の存在について、「物体は認識者と独立に存在する」(実在論者)と「物体とはセンス・データからの構成物にすぎない」(現象主義者)の対立は、両者の選択した構文論の違いに過ぎず、どちらが真とは客観的にはいえない。前者は「物−語」を原初記号とする言語を採用し、後者は「センス・データ−語」を原初記号とする言語を採用した、言語の選択の違いである。どちらが正しく世界を記述したかとは問えない。

このように、様々な哲学問題は、いかなる言語(構文論)を規約として採用するかという任意の選択の問題に解消される。

論理実証主義との相違】(『クワイン』p45)

論理実証主義
検証可能性*6によって文の有意味性を判断する。

  カルナップ

「哲学とは、言語の恣意的な選択の問題、取り決め、規約の問題であるとする。*7われわれが哲学に帰属させているものの大部分は、構文論の中で厳密かつ明確に扱えるとする」

*1:「記号−述語」とは、記号について述べられた述語である。例えば、1.「富士山は日本一高い山である」、2.「『富士山』は漢字三文字からなる」の2における「〜漢字三文字からなる」という述語がそうである。この述語は、富士山という実在の対象を記述したのではなく、「富士山」という語(記号)についての述語である。一方、1は実在の富士山について記述する述語である。いわば、経験的命題でなく、論理的命題であろうか。

*2:「記号−述語」の述語のうち、記号(語「富士山」)が指示する対象(実在の富士山)のあり方に関係なく、文法規約によって決まる述語。例えば、「〜漢字三文字からなる」「「数−語である」「物−語である」という述語。「5は数−語である」は、経験如何に関わらず論理的に真である。

*3:例)「〜は日本一高い山の名前である」。これは「〜」に入る語(記号)について言及する述語であるが、「〜」に何が入るかによって、真偽が変わってくる。経験的命題。

*4:ある「記号−述語」でない述語「F」が「準−構文論的な述語」であるとは、述語「F」に次のような意味で対応するような、ある構文論的な述語「G」が存在する、ということである。その対応とは、対象aについて、「aはFである」ということと、その対象の名前「a」について、「『a』はGである」ということとが、論理的に等値になるという仕方での対応である。例えば、「〜は数である」「〜は物体である」という述語がそうである。「5は数である」という文における述語は記号について記述しない。しかし、この文は、「〜数−語である」という構文論的な述語を使った「『5』は数−語である」という命題と論理的に等値である。よって「5は数である」という文は、構文論的述語に置き換えることにより論理的命題になる。このように、「準−構文論的な文」はあたかも言語外の「もの」(5という数そのもの)を特徴付ける述語のようにふるまうが、しかし、その文の真偽は、その「もの」のあり方に関係なく、名前「5」のもつ構文論的な特徴だけによって決まる。

*5:例)「日本一高い山である」「赤い」「丸い」

*6:経験的に検証できる命題(科学的命題)のみが認識論的に意味のある命題で、検証できない命題は無意味な命題であるとする。ただしこの理論の欠点は、肝心の科学法則自体が検証不可能(=無意味)であるということ。科学法則のような普遍的命題を検証するためには無限にある全ての対象を調べなければならないため。帰納法の原理的欠点。

*7:この考えの問題点は、論理的真理は無限に多くあるということ。よって、「論理的真理は規約に従う」が真であることを示すためには、全ての真理がそこから出てくるような公理系を採用せねばならない。しかし、このやり方では、無限後退に陥り、結局この命題は証明できないことがわかる。(『クワイン』p68)

  【  クワイン『経験主義のふたつのドグマ』   】  

『経験主義のふたつのドグマ』(『論理的観点から』所載、飯田隆訳、1950)
『現代思想の冒険者達 クワイン』(丹治信治、講談社、1997)

(ページ数は、断りがない場合は『論理的観点から』より)