脳が心や世界を産み出すのだろうか メモ  

もし「本物−見え」世界が正しいとする。
すると、本物、見え世界はまったく異なった在り方をしている。
本物世界は、我々の認識を超えた在り方をする。以下証明。

例えば、色を考える。
色(のクオリア)は脳によって現われ、見え世界に投影される。
つまり、本物世界には色(のクオリア)は存在しない。
だが、色のない物体など我々は思考することすらできない。
これは、見え世界と本物世界が根本的に異なった在り方をしていることを証明している。

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「本物−見え」論者は、本物世界を判定基準にしているのではなく、見え世界の中の真理と思われる現象を「本物世界」だと宣言し、その本物世界が見え世界を規定するとしている。
  →脳生理学者は、見え世界の中に存在するある事態(脳内Nの発火分布)が本物世界であり、
   その世界の在り方が我々の見え世界を規定すると宣言する。しかし、そのある事態(脳内Nの発火)も、
   見え世界である。それゆえその世界も本物世界(の脳内Nの発火)によって生じている。

N原理で考える。
私の知覚風景に【りんご】がある。(【 】でくくられたものは私の知覚風景の中に存在するものとする)
私は自分の脳を鏡で映して直接観察しているとする。
りんごが見える時の脳内N発火分布を持つ私の脳をN(りんご)とする。
生理学者は、N(りんご)が【りんご】を産み出すとする。
しかしこのN(りんご)も、私の知覚風景の中に存在するものであるので、これは【N(りんご)】である。
この【N(りんご)】を産み出すために、N{N(りんご)}が必要となる。
  ( N{N(りんご)} とは、N(りんご)の知覚風景を作り出す脳内N発火分布)
  私の知覚風景を生み出す脳 N(りんご)  − その脳を産み出す脳 N{N(りんご)}

  N原理の認識構造 :  N{N(りんご)} → 【N(りんご)】 → 【りんご】  
  従来の認識構造  :  りんご自体  →  N(りんご)  → 【りんご】 

生理学者は、【N(りんご)】が【りんご】を産み出すという。しかし、どちらも同じ知覚風景に属する。その両者に本質的な相違はない。彼らは、【N(りんご)】を【りんご】と同じ知覚風景の見え世界であることを知っていながら、【N(世界)】が【全世界】を産み出すとする。【N(世界)】だけ【全世界】のメタレベルにおく。
注)他者の脳を観察することは、本質的には「脳−クオリア」関係を解明できない(『脳とクオリア』p69)

循環、無限後退。自然の斉一性id:Paul:20011203

  死を隠蔽する現代  

   「死のみが生にその意味を与える」

これはウィトゲンシュタインが1916年(27歳)の日記に記した言葉である。
当時の彼は、危険な前線におり、目前には死があった。それ以前の彼は、生への意識が低かった。しかし、戦いの激しさが増す中で、危険な監視塔の任務を志願した時、彼の生への態度は決定的に変化した。以降、彼の「生の思考」は、生涯にわたって続いていく。*1

死を、存在認識の重要な要素とする『存在と時間』が、なぜ当時の人に大きな影響を与えたかといえば、第一次大戦後の荒廃した精神に合致していたからとよく指摘される。死と隣り合わせの時代を生きた人にとって、ハイデガーの哲学は、学問を超えて彼らの生そのものへ直接響いてきたのだろう。おそらく戦時の日本でも、『存在と時間』を手に前線へ赴いた若者は多かったはずだ。

生は死と並列されて初めて輝き始める。*2
現代日本社会のように、徹底して死を隠蔽し、日常から締め出した社会では、生の意義、私や世界の存在意義が薄れてくるのは当然かもしれない。*3一見それに反するように、巷には、生きる目的、生の意義を説く指南書が山のように溢れている。*4
だが、パスカルの言葉*5を思い出すのは僕だけではないはずだ。

死は隠蔽されたといった。
しかし、リアルな死は隠蔽されたが、バーチャルな死は巷に溢れている。*6歪んだ死は、それと表裏一体の生をも歪める。
現代日本はあらゆるタブーを敵視し、情報、性、そして死さえも晒けだそうとしている。我々は、その晒け出されたものに我先にと群がる。*7それは、「豊かな生をおくる」という現代において絶対ともいえるスローガンの下にある。

現代日本の特徴がこの開放性であるならば、その開放性はリアルな死をますます隠蔽する。
生が開放されればされるほど、死は隠蔽され、リアルな生は希薄になっていく。
パスカルから見れば、現代日本は自らの存在から必死に逃亡している人々の群れなのだろうか?*8

*1:鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』(p138)。「たぶん明日、照明塔係に志願し上に登る。その時はじめて私にとっての戦争が始まるのだ。そして生もまた存在しうるのだ。多分死に近づくことが私の生に光をもたらすだろう。神よ我を照らしたまえ」

*2:死とまで行かなくとも、強いストレス状態を乗り越えた時の安堵感・幸福感は生を実感させる。自由と束縛。人は束縛を経験することで自由を感じる。そして死とは、最大の束縛であり、その後の自由感を感じることのできない最後の束縛である。いや、むしろ生全体がこの束縛の影響下にある。そこからわずかに逃れた時、自由を感じる。通常自由は束縛の後にやってくるが、死という束縛からの自由は、その束縛それ以前に現われる。パスカル慰戯。「死そのものよりも、死を恐怖する心の方がずっと身にこたえる」(メレ)「死は、やってくるのはたった一度だが、人生のあらゆる時にその影を見せる。死ぬのが辛いよりも、死を怖れるほうがずっと辛い」(ラブリュイエール『人間について』)

*3:僕の日常は、死から完全に隔離されている。親兄弟でない限り、たとえ知人の死でもそれは儀式に過ぎない。(幸い僕の親はいまだ壮健である)。メディアが伝える死は、僕にとってフィクションに過ぎない。僕の生にとって、死は何の意味ももたない。ただ、想像しうるのみである。わずかに日常の中に現われる、ちょっとした危機を乗り越えた時、その安堵感、開放感、充実感が私に生の意味を教える。大学が決まり受験から開放された時、降り注ぐ陽射しの中をあてもなく彷徨うそれだけでこんなに幸せだったんだ、と感激したのを覚えている。

*4:むしろこの現象が、生の意義が薄れてきた現代人が生の意味を求め右往左往している姿を表している。

*5:「死を見ないように目隠しをして崖に向って突っ走る」(『パンセ』)

*6:ネットで自殺を予告し、それを実行した有名な日記があったが、まさにリアルな死を感じた。それが事実であったかわからない。だが、ネットというもっともバーチャルな空間の中で、もっともリアルな死を感じたのは皮肉なことだ。

*7:むしろ、群がるように強要されているといった方がいいかもしれない。街中で、メディアで垂れ流されている広告を見よ。

*8:生を充実させるための行為と思っているもの(慰戯)は、己の存在の卑小さ、死の恐怖を隠蔽するための手段にすぎないとパスカルは述べる。パスカルにとって王様が幸福であるのは、多くの慰戯が手に入り、周りのものが彼を一人にはさせないからである。一人になれば、自分と向き合わなくてはならなくなる。(王様とは現代ではさしずめ、権力者・金持ちだろうか)「退屈ほど人間にとって耐えがたいものはない。それは自らの卑小な存在に向き合わねばならないからだ。人間の慰戯すべては、この現実からの逃避手段に過ぎない」 id:Paul:20010106 

  常識への反駁  

   「常識という堅牢な城を陥落させるには、外から矢を放っても駄目である。
    城の内側に入り込み、内側から崩壊させねばならない」


常識とは、我々にとってもはや生得的ともいえる世界の見方である。
それを反駁するのは並大抵のことではない。
ある常識に異議を唱えるために、別の常識を振りかざしても無駄である。

そのような世界の見方が生じてくる「時」と「場所」に立ち戻って、それが現われてくる必然性を明らかにし、その成立過程を明らかにしなければならない。その世界の見方が、ある条件の下で現われる特殊な見方であることを示さなければならない。
つまりは、その見方が生じてくる条件と、そこでの成立過程に対して批判の矢を放つこと。

一つには歴史的に。もう一つは個人的に。
歴史的とは、その見方が生じてきたであろう時代まで遡り、その時代背景の中でいかにして、なにゆえにそれが生じてきたかを描くこと。
個人的とは、人が生まれ成長していく過程で、その見方を獲得していく様を描くこと。

何か新しいことを打ち立てようと思えば、それが現われる起源に必ず立ち戻って、そこから歩き始めなければならない。

  心脳問題メモ  

   「外部の刺激が脳に達し、脳内ニューロンをある状態とする。その結果、知覚風景が現れる」

モデル化すれば、「物→脳→物の見え(心像)」
このモデルにおいては、「物の見え」の最終的な根拠は脳内ニューロンの発火状況のみであり、
外部の「物」や「電気信号」は一切関係ない(認識のニューロン原理、茂木)。

A. 脳と心の関係

1. 「脳⇒心」の一方向の「因果関係」 :「これこれの刺激が脳に達し、”その結果”、コップの知覚風景が現れる」 ・・脳生理学

・脳生理学の「世界は脳が産出する」は、水槽脳の世界となり、独我論へと至る。
・物理反応が心的現象という全くカテゴリーの異なる現象を産み出す理由が説明できない。
・脳生理学のモデルだと「認識のN原理」は全く正しい。しかし、この原理は独我論を必然的に導く。客観世界に存在するの脳が前提であるのに、その脳が全世界を作りだすという矛盾が起こる(心理学的主観、超越論的主観)
将来、脳内N発火状態と知覚現象の対応が完全に発見されたとしても、それで「脳→知覚現象」の因果関係を確定するわけではない。片方向の対応関係が確定されるだけ。
現代脳生理学は原理的に受動的能作しか調べ得ない。能動的能作(意思)は検出されない。

2. 「脳⇔心」の双方向の「対応関係」 :「コップの知覚風景がある。それを物理的に描けば、コップからの電磁波が脳を・・」

脳内Nなどの物理現象は、知覚風景(日常描写)を物理語(科学描写)で言い換えたに過ぎない。
・日常の知覚         :知覚風景→脳
・異常(脳に電流、精神病) :脳→知覚風景 

・目の前の椅子を動かしたら椅子の見えが移動したのは、外部からの刺激が脳を変化させて、それから椅子の見えが動いたのではない。椅子を動かすことが、そのまま椅子の見えを動かすことで、そこに脳内物理現象という中間項は必要ない。日常においても、脳がこの世界を産出していると考えるのは奇妙。
・脳に微弱電流を流したら、知覚風景が変化したからといって、常に「脳→知覚風景」の因果関係とする必要はない。

B. 「見る私−見られる物」の二項構造の廃止

網膜、視神経に変化が起これば視覚風景に変化。同様に外部世界に変化が起これば、視覚風景が変化。これは本質的には同じ。
私と外部世界のどこに境目をつけるか?視覚風景に内部(私)はない。視覚風景の遠近法の中心。
眼球の後ろの私(脳)が世界を見ているわけではない。
「私」とは?(青色本

C. 「意識対象−意識内容−意識作用」の三項構造の廃止

記憶心象や想像心象は外部から見えない。よって、心は私の身体の中のどこかにあると考える。
しかしこれは間違い。身体に閉じ込められた心などない。私が生きているこの知覚風景全体が「私の心」である。
今日の買い物を脳に記憶しておくのと、メモに書いておくのでは何ら変わらない。外部記憶装置。
カメラモデルの廃止。意識内容をどうやって外部世界に映し出すのか?

  物理学の世界観  

物理学が対象としている世界は、物自体の世界か? それとも現象界か?

物理学者は物理法則を物自体の法則と考えていない。むしろ、物自体のような世界を想定することを形而上学として嫌悪している。といって、人間の認識を通した現象界というのとも違う。基本的に素朴実在論。ただし、対象とする世界は、モデルによって変化するとする。

   「世の中近似とモデル化で成り立ってるわけ。
    人間の認識とか物自体とか何ら具体的な定義をもたない
    言葉のみを並べ立てても無意味なの。

    同じ「モノ」でもそれを解析する際に用いるモデルの違いによって
    まったく別のもののように捉え認識されることは生物の感覚器官でも
    人間の作った物理モデルでもなんら変わりはないの。
    なぜか?それは世界が「モノ」じゃなくて「相互作用」で成り立っているから。
    相互作用のソースとして「モノ」を定義してるだけ。
   「相互作用」は、実際に作用しあうものだから現象によって
    作用の仕方が違ってくる。だから基地の相互作用のソースに
    共通の「モノ」を定義していてもまったく違うもののように「見える」
    こともある。

   「人の認識-相互作用-モノ」とあったとき「モノ」の部分を世界そのものと
    考えても「モノ」あくまでモデル依存の存在であり
    そこに無理やり客観的かつ究極的なものを置いてしまうと
    無意味な形而上の議論にはまり込んでしまう

    物理屋の立場から世界とは何かと問われるなら
    俺は「相互作用」こそが世界そのものだと答えたいね」*1


「人の認識-相互作用-モノ」。この世界モデルは重要かもしれない。*2

*1:id:Paul:20011204

*2:廣松さんの哲学に「モノからコトへの世界観」といったキーワードがあった気がする。関係あるのか?

機械的決定論は、語の異なった用法を混同したゆえ生じる

機械的決定論 :「物質である脳から心が生まれてくるから、心は全面的に物質の法則に規定されている。そして、物質の法則は決定論を導くゆえに、心を含めた世界全体も未来永劫決定している*1

 この偽りの理論は、ある語の異なった用法を混同したゆえに起こる。その語とは「物質」である。
科学理論が言及することのできる「物質」とは、「心を通して見られた物質」であり、それ以外にない。それゆえ、「物質」という語の正しい意味は次のようになる。

  「物質」の意味 :心を通して見られた物質 ・・(a)

 では決定論者の言い分は、この正しい意味での物質という語を用いているだろうか? 否である。彼らは「物質」という語の意味を、次のようにすり替えている。

  機械論者の使用する「物質」の意味 :心を通さず、心から独立して存在する物質*2 ・・(b)

 この意味で言明Aを理解すると、いかにも世界の真理を告げているかのような錯覚に陥る。しかし、これは誤りであることは、前提aから明白である。決定論者の言明Aに、前提aを代入して見よう。

「心を通して見られた物質である脳から心が生まれてくるのだから、心は全面的に心を通して見られた物質の法則によって規定されている。そして、心を通して見られた物質の法則は決定論を導く。ゆえに、心を含めた世界全体も未来永劫決定している」
ここで、

  「心は、心を通して見られた物質の法則によって規定されている」 ・・A’  

とは、どういう意味か?
 「心を通して見られた物質」とは心的現象である。よって「心を通して見られた物質」とは当然心の法則に規定されている。*3A’の文は、「心は、心の法則に規定された心的現象の法則によって規定されている」と言い替えられる。つまりこの文は「心は心の法則によって規定される」と同一の命題であり、極当たり前のことを言っているにすぎない。*4その原因は、これまで見たように、「物質」という語の二つの意味を無意識に使い分けているからである。*5

*1:「物質の法則は決定論を導く」という に対して、「量子論では確率的にしか物質のふる舞いを特定できない」とする反論がある。しかし、この確率論も一種の決定論である。心は物質の法則に規定されているとするのが、決定論の本質だからである。よって、量子論を根拠に決定論は反駁されない。

*2:次のような指摘があった。「科学は、主観的事情を捨象したときに残るクオリアの共通項について研究する『心的現象の大系』ということです。言い換えれば『客観を追求する学問』ということです」。この科学観は正しい。しかし、科学者はこれを理解しているのだろうか。彼らは、科学が対象としているのは、物自体に内在する法則、つまり、「物自体の体系」の構築を目指しているのではないか。理論物理、宇宙史などどうだろうか。

*3:ここで機械論者は、「心は物質から産まれているから、心の法則と思っているものは物質の法則である。物自体としての物は、クオリアとしてありのままに投影されている」と反論するだろう。そして、これに対して有効な再反論は今のところない。心を通して見られる世界の法則のうち、どれが物質の法則で、どれが心固有の法則が見分ける術はないからだ。よって、攻めどころを変える必要がありそうだ。一つは、脳生理学が主張する「脳−心」の関係を一方的な「因果関係」とするのではなく、「対応関係」とすることだ。

*4:量子論では観測問題が生じる。観測問題とはつまり、「極小物質は心を通して見られた途端、確率的にふるまう」ということである。これは、物質の運動に心の存在が関連していることを示す。だが、今回の議論とは、関係なさそうである。

*5:科学が物自体に内在する法則を解明していると主張するならば(*これは間違いであることがわかった。2/25の日記見よ)、彼らは、物自体に内在する法則性は人間の脳から派生する物理法則というクオリアに「何らかの超越的原理によって」厳密に一致する事を証明しなければならない。