メモ  

世界は元来一つだけであり、それを多種多様jな生命独自のサングラスを通すゆえ、世界も多種多様に映ると考えるのではなく、世界自体が私の心と連動して、様々に映り行く性質を持っていると考えてはいけないのか?
客観的な世界が存在し、そこから送られた信号を身体が解析し、様々な色付けをした後で、まるで映画のようにスクリーンに映し出すのではなく、もともと外部世界と心は密着・一体化したものであり、外部信号と心的能作の関係により様々な世界が現れてくると考える。それゆえ世界とは各自異なった世界しかありえない。私の知覚風景ととんぽの知覚風景の背後に唯一客観世界は存在しない*1

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主体の存在しない世界など想像できるのだろうか?
主体と対峙しない世界、つまり、主体の認識を通さない世界は存在するのだろうか?

認識する主体が全て滅びさっても世界は残ると私が考えているのは、私が存在しているこの生の中で、次々と人が死に、この世界からいなくなっているにも関わらずこの世界は存続し、私も存在し続けているからである。
この考え方の底にあるものは、「私の存在=他者の存在」と考える客観思考である*2
次々と死に行く彼らと私を同一の存在者、この世界にとって同一の在りかたをしている存在者と考えているゆえ、彼らが死んでも世界が残るように、私が死んでも世界は残るはずだと考えるのである*3

確かに客観的に考えれば、私と彼に違いはない。
構成されている物質や外見、振る舞い、思考構造はほぼ同じで、私と同じように心をもって世界と対峙しているのだろう。しかし、存在レベルで考えれば、私の存在の仕方と彼の存在の仕方は決定的に異なっている。彼は私の世界の一点景であるが、私は私の世界の一要素ではない。彼が死ぬことと、紙が燃えて消滅することは、精神的ダメージは別にして、私の世界自体に変化が起こるわけではない。しかし、私が死ぬとすれば、(おそらく)この世界全体が消え去る。

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私というものを定義するとすれば、それは、身体を含めたこの目の前の世界全体以外ありえない。
目の前の風景だけでなく、私が想い描き、想起している心像を含めた全てが私の存在であり、その世界に直接関係ができるものが私である。
私の身体や心像はある程度私の自由になるが、遠くのコップは動かすことはできないといわれるかもしれない。しかし、コップの心像を意識によって変化させることができるように、遠くのコップはそこまで行って片手で掴めば、コップの位置は変化する。形を変化させたいならば、かなづちで叩けばいい。そこに本質的な違いは存在するのか?
だが、コップの心像は私泌的なもの、実物のコップは共有されているものである。しかし、私泌的なものは実在せず、共有されているもの、いわば客観的なものだけが実在するとする定義の仕方に再考の余地はないか。

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今日の夕飯のおかずを買いに行ったとき、事前に記しておいたメモを見て思い出すのと、頭を絞って思い出すのとその違いは何か? 脳に刻み込むことと、紙に記すことに、本質的な相違はあるのか? 脳は身体内記憶装置、メモは身体外記憶装置。もし将来、脳に差し込んで使えるカートリッジ式記憶装置が開発されればそれはどうなのか。人工では駄目だと言うなら、ある薬を飲めば、脳が一部増殖して、記憶装置化する場合は?

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私の視覚神経や脳内ニューロンに物理的変化が起こって視覚風景が変わるのと私がサングラスをかけたり、他人が机の上のコップを動かすことで視覚風景が変わることには本質的な区別はあるのか。
「物−電磁波−網膜−脳」。この間に「私−世界」の境界を設定することはできるのか。

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私の存在とこの世界とを分離して考えることはできない。ある物質が結合され、その集合体(身体)の中に「心」が吹き込まれ、世界と対置して世界に語りかけていくわけではない。「私−見ている−世界」と言われるように、「主体−認識作用−世界」といった図式で、分離された主体と世界を何らかの魔法の力(心)によって結び付けているわけではない*4

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「私」とは、通常、意図的に影響を与えられる範囲をいう。
例えば、私の右手は自分の自由になるが、他人の右手は自由にならない。
よって、彼の右手は「私」ではない。私の心像・観念は自由になるが、他者のそれらは(もし存在するとしても)自由にならない。よって、私の心像・観念は私のものである。
遠くに見えるライトスタンドはいくら念じても動かない。だからスタンドは私ではない。
しかし、車に轢かれた猫の死体を見れば、私の気分に大いに影響を与える。
私の不用意な一言は、彼の心を傷つけるだろう。
物質として見れば、「私」の範囲は決まってくるが(もちろん身体である)、心に関しては、もし「私」の範囲を決める条件が「対象に影響を与える」ならば、心は私の身体を遥かに超えて広がっている。すでに数百年前に死んだ物書きの言葉でさえ、私の心は影響を与える。

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私だけが他の存在者と異なり、特殊な在り方をしている。
私の腕をつねれば痛いという確かな感覚が生じるのに、彼の腕をつねっても何も感じない。
なぜ、私はこの身体を離れて世界を見ることができないのか?
私は手に持っているボールを遠くに投げることができるにも関わらず、私の意識はこの身体から離れることはできない。なぜ、私は彼の視点から世界を見ることができないのか?私が想像や想起、予期した心像はある程度自分の意思で変化させることができるにも関わらず、私の目の前のコップはUFOにならないのか?

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今、心が生まれてくる母胎となる世界を物質世界と呼んだが、実は我々が通常知覚している意味での物質世界ではない。そこには色も匂いも音もあらゆる五感は存在しないからだ。たとえば、色は人間の主観に備わる性質だと考えられている。しかし、色のない物体は考えられるだろうか?色が主観の性質ならば、主観を通さない世界のコップには色はない。そのようなコップは、どのようなものなのだろうか? 我々はそれを、「丸い三角形」と同じく想像することすらできない。色は、物から反射したある波長の電磁波が外部信号として身体に取り込まれ、それに反応した身体器官(網膜、視神経、脳)との共同作業によって現れる現象である。色の客観的な物理的性質は存在しない。

*1:、唯一客観世界という考え方はある意味古めかしくも馬鹿馬鹿しい考え方だろう。世界は相対的であり、それを解析するときのモデルによって変わってくるわけだから。だが、一般的には、我々の知覚を可能としている背後世界の存在を、それを認識できないにしても、無意識に想定しているのではないだろうか?生命の存在しない宇宙史などその例ではないか?そのモデル心的現象を含んだモデルは作れるのか

*2:自らを客観視、いわば第三者の目で自らを見つめ返す「まなざし」が人間に備わっていなければ、世界とは私の世界以外ありえず、つまり客観世界は気付かれず、世界は私の死と共に消滅すると考えるだろう。

*3:客観世界は残るが、私の主観世界は私と共に滅びると両者を区別する。

*4:主体と世界を結びつけるものは記号(言語)でもありうる。二元論では、「主体−世界」をつなぐ媒介項が必ず必要となるし、それを見つけることはできない。「意識対象−意識内容」「世界−主体」「心的現象−物理現象」これらの間に密接な関連があるのはわかっているが、それをつなぐものは出てこない。なぜなら、根本的にカテゴリーが異なっているから。いわば、「数5の重さはいくらか?」と問うようなものである。

  リートフェルト展  

府中に所用があり、府中市美術館で開催されているリートフェルト展に立ち寄った。

良かったのは、シュローダー邸の模型と、レッド&ブルーチェアに座れたこと。
残念だったのは、エスキースや落書きが少なかったこと。

シュローダー邸は、それ単体で見る時と、周囲の景観の中に置いて見る時とでは、受ける印象が全く違う。
現在の日本に住む者の目から見たら、古めかしいデザインに思えるかもしれない。だが、隣接する住居や周囲の町並みの中に起立する姿を見ると、暴力的なまでの前衛さにあっけに取られてしまう*1 *2
そして、開放的で広々とした室内のイメージと異なり、本当に小さい。こじんまりしている*3。こんなおもちゃのようなかわいらしい建物が、20世紀の建築史に残るものだと普通の人は思わないだろう。
圧巻は、色彩を媒介に、家具と建築内部の一体化によって創りだされている流動的な空間だろう。むしろ、「建築=家具の集合体」と言った方がいいのかもしれない。
鮮やかな原色を使用しながらも、それでいて落ち着いた空間は魅力的である。

レッド&ブルーチェアは、分解された部材が展示されてあった。
「えっ、こんな単純な部材だけで組み立てられてたの?」という感じ。実物から簡単に予想がつきそうなものだが、改めて提示されて見ると驚きの念を隠せない。子供でも作れそう*4
この椅子を見たら、誰でも自分で材料買ってきて「My椅子」を作りたくなると思う。
リートフェルトの家具は、素人のものづくりの心さえも刺激する。「よっしゃ、俺も!」と*5
やたら複雑な曲線だとか、手の込んだ飾りだけがデザインじゃない。
イデア(と才能←)次第で、コストや構造上の制約があっても、こんなに豊かで表情を持ったものが作れる。大きな勇気を与えられた。


良い作り手は、作品の素晴らしさを認識させるだけじゃなくて、それ以上の何かを与えてくれる。

この展覧会では、彼のデザインコンセプトや作品の形態以前に、「ものづくり」としての姿勢、素材と戯れながら手と頭を連動させていくことの大切さを思い出した。
最近は活字やPC相手がほとんど。せいぜいスチロール模型。しかも仕事上の必要性から*6。その上哲学にも興味をもち、プライベートな時間はそちらにかかりきり。
そんなこんなで、純粋な楽しみから自分の手で何かを作り上げる時間がなくなっていた。

僕が今使っている机や本棚は全部自分で作った。
安い木材屋を探してきて、材料を選んで、自分でデザインして、寸法を測って、切って、塗装して、組み立てて・・・。
本がけっこうあるから、大型書棚が2つ。中型が2つ。
机は見栄え重視で、1800*600の一枚板のキャンティレバー構造。板が浮遊してる感じを出したかった。エッジのラインが、結構かっこいい(笑。
でも使い出してから、奥行きは900は必要、キャンティは(当たり前だが)使いにくいということに気付いた。
その反面、構造的にかなり無理をしているのに、4年の間、しなったり壊れたりもしない。素材の強さを実感できた。
自分で作って、自分で使い続けることで、初めてその長所と短所がわかる。
それが次の作品を作る原動力となる。一つの作品の内には、次の作品がすでに胎動している。

建築は、自分が直接造るものではなく、自分が(自邸でない限り)使い続けることもできない。
能動的で純粋な創造的な側面より、受動的な側面、作業的な側面の方が遥かに多い。
多くの制約条件を課せられた建築は、自分が考えていることを形にできる機会はなかなか訪れない。

そんな日常に追われてしまうと、つい、ものづくりの原点ということを忘れてしまう。
一流の作り手は、それを僕に思い出させてくれる。
結局僕は、リートフェルトの建築や家具を見ながら、その背後に立っているリートフェルト自身を見ている。彼の作品の形態や理論でなく、彼の職人としての魂を感じ取っているのだと思う。
その彼の魂が僕に語りかけてくれるから、僕はこうして自分に問いかけている。

こういった見方は、僕の場合どの分野でも同じ。
ここ一年半ほど、哲学者である大森荘蔵を追っかけている。
そこまで惹かれる理由は、彼の哲学の内容にあるのではないことは明白だ。
そうではなく、彼の哲学が産み出された地点、言い換えれば、彼が世界を見るために立っている場所に関心があり、明らかに僕らとは異なった視点を持つ大森に惹かれてしまうのだ。
哲学者は、彼の哲学を語ることで、彼の立っている場所を我々に示そうとしている。
哲学の面白さは、彼らが立脚している場所以外にありえない。

建築も美術も哲学も、そしておそらく全ての人間の行為は、作品ではなくそれを産み出した母胎に思いを馳せる能力が我々に備わっているからこそ心が揺さぶれるのだろう。
たとえそれが名の伝わっていない作品であっても。


写真集「GA68 シュローダー邸」(リンク先の68をクリック)
 

*1:竣工は1923年。

*2:こういった前衛的な建築を見るにつけ、施主は偉いと思う。そして、その施主の信頼を勝ち取った建築家も偉いと思う。建築とは施主と建築家の信頼のコラボレーションだとつくづく思う。施主は幼い子供三人を抱える未亡人。名建築の影に名施主あり。

*3:この建築を見るたびに、autozam(?)のAZ-1が連想される。ビートやカプチーノ、ましてやロードスターでは断じてない。

*4:シュローダー邸もローコスト住宅(らしい)。レッド〜と同じく、構造的には単純なのだろう。細部は恐ろしいほどにこだわってそうだが。

*5:で、しょぼいのしかできず、がっくりと肩を落とします。

*6:建築の設計を生業としています。

  私の心、あなたの心 2  

   「『他者の心』とは、私にとって、私の世界の一要素である心的存在者である」*1

「私の心」「彼の心」「飼い猫の心」「トンボの心」「花の心」「ロボットの心」等々・・。
実際にそのものに心が宿っているかどうかに関わらず、比喩的な使い方を含めて、「心」という概念は様々な存在者に適用される。

心とは、「喜怒哀楽の感情を持っている」「自意識がある」「抽象観念を作り上げることができる」といったいわば高度な意識作用から、「外界の事物が見えている」といった素朴な意識作用まで適用される。その範囲をどこまで取るかによって、「人間には心はあるが、猫には心はない」「いや、猫どころか草木にも心はある」といったように、様々な心の在り方が可能となる。

しかし通常において、心は生物学的・機能的レベルにおいて分類される。
それによれば、人間には人間の心(の構造)があり、猫には猫の心(の構造)が存在するとされる。その視点において私の心と同一の在り方をしているのは、彼や彼女の心であり、タマの心ではない。この心の分類法は、科学的な方法、つまり一般的・客観的視点に負う。
以上の分類法を一般化すれば、以下の対置図式を持つ。

  「人間の心 ⇔ 猫の心 ⇔ 花の心 ⇔ 水の心 ⇔ ロボットの心 ⇔ ・・・」

この図式の境界は、「心」という語、概念を我々がどう定義するかによって変わってくる*2 *3

しかし、存在論*4に捉えれば、この図式は通用しない。
対置の図式は、「私の心−私以外の存在者の心」である。私の心のみが、他の全ての存在者の心と異なった次元で存在している。
(以下、私の心の在り方をするものを「心m」、私以外の存在者の心の在り方をするものを「心o」とする)

  「心m ⇔ 心o」

これは、「心」という語の定義の境界問題とは一切関係しない、固定された対置構造である。
「(心)o」にはどの存在者が代入されてもかまわない。猫でも、花でも、ロボットでもかまわない。なんなら、石や樹でもかまわない*5。どのような存在者であっても、それらは同一の在り方をし、心mと対置される。この両者の在り方は証明するまでもなく、誰にとっても明白な相違である。
そもそも、「犬に心はあるか?」「ロボットに心は持ちえるか?」といった問いが発せられるのは、心mと心oの在り方には根本的な相違があり、私以外の存在者は彼であろうとロボットであろうと同様の在り方をしていることが原因である*6

この対立する二つの心であるが、心という概念が現れる原初の場に立ち戻って見れば、そこは心m以外ありえない。

「明日晴れてくれよ」
「痛ッ!!」
「あの娘、かわいいなぁ」

といった思いのみならず、今見えている知覚風景や、想像や想起によって浮かぶ表象”それ自体”を指し示す語を原初的な意味で「心」と呼ぶ。
この原初的な心(心m)は、外部の事物や想像された心像が収まるための容れ物ではないし、それらを加工・分類する作用でもない。その容れ物に入っているものそれ自体がそれである*7

他の存在者や彼らの心は”常に”心mとして存在する。
私に対置して他の存在者や様々な観念が存在することを、我々は「私が存在する」と呼んでいる。私の心というものが存在するとすれば、それは目の前の風景や、想起や予期、想像した心像全てを指す以外ありえない。心mとは、全ての存在者を外延を持つ存在者である*8 *9
私の世界に現れる存在者全てが私の心であるならば、「私の」心という限定は無意味となる。生物学的な意味でなく存在論的にみれば、(その意味で)「私の」心は存在しない。
私の心という入れ物があり、そこに外部の事物が流入してくるわけではない。「目の前にりんごが見えている」、それが私の心であり、「それをかじることができる」、それが私と呼ばれるものである。それらの存在者を抜きにした空っぽの箱のように自存した心mは存在しない*10

*1:昨日(3/10)の続き。

*2:「心とは、怒ることができる能力」ととれば、「人間・猫の心 ⇔ 花、水の心」という対置図式が現れる。

*3:我々は、様々な事物を同じ語で呼ぶとき(例えば、バナナとみかんを同じ「果物」と呼ぶとき)、それら事物に共通した何かがもともと存在しているはずだという錯覚に陥る。それゆえ必然的に、バナナやみかんは「果物」というカテゴリーに収まるのだと考えてしまう。確かに、共通する何かが存在するゆえそれらは同じ名前で呼ばれるのだろう。しかし、その分類の基準となる共通する何かは、人為的な枠組みである。我々はそのような枠組みなしには世界を認識することはできない。少なくとも、与えられたセンスデータから意味を持つことはできない。

*4:存在論的」という”それっぽい”語を使ったが、間違った用法だろう。他に適切な語を思いつかなかった。

*5:昔は、石や大樹にも心が宿ると考えるアニミズムがあった。それは単に、彼らが用いる「心」という概念には、現在よりも遥かに拡張された意味が含まれていただけに過ぎない。

*6:心oを定義するものは、他者の「振る舞い」である。振る舞いから心mと同じものがその存在者の中にあるはずだと考えることにある。最終的に、ある存在者が心があるかどうかを判定する基準は、その存在者の器官ではなく、その振る舞いである。草木や石が心がないといわれるのは、その器官的な要素が原因でなく、その振る舞いが、心mをもった存在者(私)や、それを類似したあり方をするゆえ私と同じく存在すると考えられる存在者(他者)とまったく異なった”振る舞い”をするからだ。けっして、原初的な意味での心がないからではない。同様に、猫には人間よりは劣っているものの心が存在すると感じられるのは、その振る舞いが心mとそれに類似した存在者の振る舞いと似ている部分があるからである。私の心ある存在者であると確信するのは、常に他者の振る舞いによってである。投影。

*7:では心oはどうか。心oは、この原初的な意味での心ではない。「彼の心」という時、彼の痛みや、喜びや彼の見ている知覚風景は、私を交わることはない。彼がドアに指をはさんだ時、もし私に激痛が走ったとしても、それは彼の痛みではなく私の痛みである。このような「すべては私の○○」となるのは、そもそも心mと心oの関係がそのような在り方で存在しているからである。

*8:全ての存在者が私の心に内包するならば、「全ての存在者」とは即ち「私の心」となる。

*9:しかし、これでは単純な独我論となってしまう。

*10:相変わらぐちゃぐちゃ(笑

  私の心、あなたの心  

「内なる観念」「外なる事物」の図式を破棄するとはどういう意味か。

「内なる観念」という考え方がなぜ現れるかと言えば、他者の観念はその人にとって私泌的な在り方をしているからである。
彼が想像したパン、想起したりんご、彼の思考、意思。すべて私からは窺い知れない。
私から見えているものは、彼の表情であり、彼の振る舞いであり、彼の行為である。
そこから私は、それを可能としている彼の内なる存在者を思い描く。そして、それらに名前をつける。名付けられた名前、たとえば「彼の心」「彼の心像」「彼の意思」は次第に客体化され、私と対置される*1。その結果、その名前が指示する対象はどこかに存在するはずだと思い込む*2 *3 *4。その思い込みは、私の心が私の身体と密接な関連を持つことを考慮すれば、彼の心は彼の身体のどこかに宿るものだという考えを導く。
こうして彼の心は、彼の身体の内に閉じ込められた。

私は、彼の心を客体化したように、私の心をも対象化し客体化する*5
私の心を客体視すれば、当然ながら私の心も私の身体に閉じ込められる。
こうして、あらゆる心は身体に閉じ込められた。

では、この過程のどこが間違っているのか?
それは、「彼の心」と「私の心」を同一視、置き換え可能と考えたことである。
私に対置して存在する対象を客観的に記述しようとする思考法を、本来私泌的であるはずの私の側の領域の解明に適用することは誤りである*6
「他者の心(心一般)」と「私の心」の存在は、まったく異なった在り方をしている*7

「他者の心」とは、私にとって、私の世界の一要素である心的存在者である。
彼の心や彼女の心や猫の心は、私にとってまったく同じような在り方をしている*8
その在り方とは、私に対置され対象化された在り方である。それらは常に「私−○」という対置構造において現れる。私に対置された○は私から窺い知ることはできない。

しかし、私の心はそうではない。
私の心は、(私の意識を客体化しなければ*9 )世界に所属する一要素ではない*10
「私の心」とはすなわちこの世界であり、「私が存在する」とは、この目前の知覚風景が存在していること以外にありえない。この知覚風景を離れて自存する私の心などありえないし、私の心を離れた「私の」世界などありはしない*11 *12

*1:多くの哲学問題は、あらゆる観念を客体化しようとする意識のこの性質に負っている。

*2:我々は、ある名前があるとき、それを指示する対象があるはずだという誘惑に囚われる。

*3:たとえば、個別的な犬を外延に持つ「犬」という語が存在するならば、その「犬」という語は個別的な犬に共通する何かを表したもので、そのような何か(本質)は存在するはずだと考えてしまう。「本質」と「個別的性質」では、本質の方が根源的なものだと考えてしまう。本質とは、様々な個別から抽出されたものであり、現実の経験世界を基盤に確立されたものである。しかし、個別よりも本質の方が普遍性を持っていると考えられるゆえ、本質が個別を規定するという逆転現象が起こる。たとえば、多種多様な犬が同じ「犬」という語で呼ばれるのは、犬の本質が個別の犬に備わっているゆえ、それらは初めて犬でありえるのだと考えてしまう。

*4:もし現実世界に見当たらなければ、それが実在する形而上世界を想定する。

*5:心や観念の空間化、物象化は強い誘惑である。人はある観念、言葉があれば、それを空間化し、どこかに実在する対象とみなそうとする。たとえば、「空間」や「時間」。その空間化が観念の客体化、実体化につながる。心を空間的に捉えるのはあくまで比喩にすぎない。参照「真の私とは誰か」id:Paul:20040305

*6:我々は、この種の物事を第三者の視点から見る客観的思考法を信頼しすぎている。客観的に捉えられた世界が正しく真の世界であり、主観的で個別的な世界は「見え」の世界だという思考法は破棄しなければならない。

*7:他者の心、たとえば彼が想像しているパンを私が経験した途端、それは私の意識経験へと変化する。「私の心」「他者の心」という語の定義からして、論理的に不可能である。参照「意識は観測できるか」id:Paul:20020103。

*8:これは、「自我は存在するが他我は存在しない」とか「私の心と他者の心は科学的に見て異なった構造をしている」という意味ではない。そうではなく、存在論的に両者は異なった在り方をしているということ。

*9:参照「真の私とは誰か」id:Paul:20040305

*10:もちろん私の意識が世界を作り出す超越論的主観でもない。

*11:知覚風景と、想像や想起によって現れる心像(想像心像、想起心像)とは、「私」にとってどういう関係にあるのか興味を持っている。

*12:「心一般」と「私の心」の違いを踏まえて、客観的な方法論では「私の心」は捉えられないと考えたのが現象学。世界の成り立ちを記述する二つのやり方。1. 外に向って :人間が認識している世界を客観的に記述する(物理学):「一般的な心(他者の心)」の成り立ちの解明。2. 内に向って :人間の認識を可能とする条件を記述する(カント、現象学) :「私の心」の成り立ちの解明

  心理主義があらわれる起源    

   「言語は、それを用いる人の観念を表す記号である」

この「言語の心理主義」は、言葉に対するごく一般的な見方であろう。しかし、現在この考え方はほぼ否定されている*1。だがこの言語観は、私たちの通常の感覚に非常に適合している。なぜだろうか?
それは、我々の認識の枠組みが未だ「主観−客観」の二元論だからである。

主客二元論の下では、私の心に現れる表象と外部の世界とは基本的に断絶されている。しかし、何らかの”魔法”によって、私の心に外部の事物が複写される*2。その時、私の心に現れるものが心像や観念である。
この考え方の下では原理的に隔絶された、私の心と他者の心とをつなぐための道具が必要とされる。私の思い浮かべていることを相手に伝えるためには、まず私の心像を誰にでも共有できるなんらかの記号に置き換え、その記号を介し、相手は自らの心像を形作らなければならない。
その役割を果たすのが言語であると考えられる。
図式化すれば、「客体 → 私の心像 → 言語 → 彼の心像」となる。
これによって、原理的に断絶された私の心と他者の心が通じあうわけである。

表象のこの移り行きを可能とするためには、言語とは心像を指示する記号であり、かつ、その記号から新たに心像を形成できるという言語の心理主義が前提とされる。言語の心理主義とはこのように、主客二元論の認識の構図を起源に持ち、なおかつそれを可能とする条件でもある*3

「内なる観念」「外なる客体」という構図を破棄することは、この「言語は内なる観念を指示する」という考えをも破棄しなければならない*4 *5。これは、言語から心像を介して客観的な事物や事態を読み取るのではなく、言語から直接客観を読み取らねばならないことを示している。

私が目の前のりんごについて語るとき、私の心に現れたりんごの写し(心像)について語っているのではなく、「客体としてのりんご」そのものについて語っているのである。

*1:「千角形」と「千一角形」の違いが何かを我々理解することはできる。しかし、この両者の違いを明確に表象することは不可能であろう。これは「千角形」「千一角形」という語が、心像を表しているのではないことを示している。もちろん、ある語を聞いてすぐさまそれに直接結びつく心像が浮かぶことも多い。たとえば、「イチロー」という語から、マリナーズイチローの顔が浮かぶときである。しかしその時の心像は、本質的にはその語(イチロー)が指示しているものではない。少なくとも「イチロー」という語から思い浮かばれる彼の心像は、実在のイチローを理解するための必要条件ではない。言語が「言語的な記号的与件」であるように、心像は「挿絵的な記号与件」なのである。

*2:この魔法をかけるのが、現代では”脳”と考えられている。

*3:ではなぜ私の思い浮かべていることが、言語を通して他人にも伝わるのか?ウィトゲンシュタインが言うには、「言語の使用によって」である。廣松が言うには、「思考と言語は一体化している。人間が認識する世界そのものが言語的に成り立っているから」である。

*4:たとえば廣松渉id:Paul:20031203「知識の伝達とは何か?」の項参照。

*5:むしろ、心理主義が反駁されるのは、「内なる主観」「外なる客観」という図式が誤っていることであることを示す。

  「真の私」とは誰か    

私が自らの意識を内省した時、「本当の私」が現われる。

私が、「なぜさっきあんな酷いことを言ったのだろう」と自分に問いかけるとき、「問いかける私」と「問いかけられる私」の二人が存在しているように思える。「真の自己」である「内省している私」が、彼と双子の「内省されている私」に問いかけているように思われる。

これは、「本当の私」が私の身体のどこかに内座していて、そいつが私の身体や感情、意思を操作しているという構図である*1。この構図は、私という存在の二元性を露わにしているようにも思える。

だが果たして、この構図は正しいのだろうか。
なぜこのような「私」の分離が起こるのか?
それは、我々が世界を「主体−客体」の図式でみているからである*2。「主体−客体」の図式とは、私が何かを認識している時、認識されている何かを客体として私と対置する思考法のことである。

私が机の上のりんごを見ている。
その時、私の意識が志向している対象(りんご)は客体化されて私と対置される。「りんごを見ている私」と「私に見られているりんご」に二極化される。これが「(見る)主体−(見られる)客体」の二元論的構図である。一方に行為する主体があり、他方に行為される対象がある。

私の意識を内省する時もこの原理が働く。
普段の私は、身体と意識はぴったり密着している。ましてや、私の意識が分裂しているわけではない。しかし、私が私の意識を意識的に内省しだした時、身体と精神、内省する意識と内省される意識との分離が始まる。普段一体化している私の意識が、「観る私」「観られる私」に分裂する。観られる私が客体化されるわけである。その時、客体化されている私があるのだから(これは身体と同一視されるので想定しやすい)、それを志向しているもう一人の私も存在しているはずだと考える。この図式を固定化すれば、永遠の魂、身体が滅びても存在し続ける存在者を導く。

しかし、そのようなもう一人の私(真の自己)など存在しない。
「観る私」と「観られる私」の分離が存在しないのはもちろん、「りんごを見る私」「私に見られるりんご」の「主体−対象」の分離関係さえも存在しない*3。端的に次のように言わなければならない。

  「私の知覚風景にりんごが現われている。その風景そのものが私である」

「真の私」は私の身体のどこかに居座って、眼球というのぞき穴から世界を観察しながら、私の身体や心を操作しているわけではない。りんごを見ている時と同様に、「私の意識の志向先には私の意識がある。その両者を含めた意識全体が、私の意識である」と言わねばならない。

現在、身体から独立した(魂といった)「真なる私」を信じる人はほとんどいないだろう。しかしその一方で、普段の私とは異なったもう一人の自分が存在しているような感じも捨てがたい*4。その両者のギャップを巧みに、しかも現代最大の信仰といえる科学である脳生理学が埋める。
「脳が世界を作りだす」というテーゼである。

「真なる私」は「脳」に変更された*5。このテーゼは、「真なる私=脳」が「仮の私=感情、意思、知覚風景」を操作することを示す。これは、伝統的な「主体−客体」「観る私−観られる私」と同じ起源を持つ。脳という主体が、私の身体を含めた世界という客体を作り出す。
しかし、「見る私」と「見られているりんご」を分離できないように*6、「脳」と「世界」も分離できない。

  「私にある知覚風景が現われている、それが私の脳がこれこれの状態になっていることである」
  「私の脳がある状態になっている。それが私の知覚風景がそれそれになっていることである」

これが正しい見方ではないだろうか。

*1:認識論における脳内に住む小人。

*2:二元論の起源 :私は私の身体を操れるが、遠くにあるりんごは操れない。りんごは、明らかに私とは異なった在り方をする物である。するとこのりんごは私ではなく、私と対置された何かであると考える。その時、「私−りんご」の「主体−客体」の構図が現われる。「私ー世界」の境界は、私が直接関係できる・できないの相違だと思う。これは物質に関しては正しい。私が操れる・直接関係できる物質が私の身体であるという意味で。「私の身体−りんご」の構図は正しい。しかし、これを心に拡張し、「私の心−私に見られたりんご」と考えるのは誤りである。心は身体に内属しているという先入観があるから「心=身体」と考えて、身体という語が使われる文脈に、心という語を代入することが誤りの原因である。

*3:「観る私」「観られる私」という私の二極化とは別に、「見る私」「見られているりんご」の「私−世界」の二極化の誤りも明確にしなければならない。

*4:自らの意思とは裏腹に、「思わず〜してしまった」という時などがそうであろう。その原因を無意識や遺伝子に関連づけるのは正しいだろう。しかし、無意識や遺伝子が我々を動かしているといった比喩を現実の場に持ち込むのは誤りである。

*5:我ながら強引なこじつけっぽい(笑

*6:もちろん、(通常使われる意味での)「身体としての私」と「りんご」はまったくの別物である。ウィトゲンシュタインは、「私」という語には「物理語法」「感覚語法」の二つの文法規則が存在すると指摘した。http://d.hatena.ne.jp/Paul/200309 私とりんごは別物であるという時、物理語法の文法を用いている。一方、「(見る)私」と「(私に見られる)りんご」に区別はないという時は、感覚語法を使っていると考えるのはこじつけか?

  「本物の世界」を想定してしまう原因  

人間は、具体的で現実的な事物から、一般的で普遍的な事物を抽象化して取り出す能力を持っている。*1
たとえば、多種多様に描かれる三角形から、普遍的な三角形(三角形のイデア)が想定される。なぜ普遍的な三角形が想定できるのか。それは、あらゆる三角形に当てはまる、いわば三角形の本質を掴み取る能力が人間に備わっているからだ。この掴み取られた普遍的三角形とは何か? 当然ながら実在物でなく観念である。そのとき我々は、次の誘惑に駆られる。

「この観念はなんらかの実在物ではないか」
「知覚も想像もできないが、しかし、人間の認識を超えたどこかに存在する三角形ではないか」
「この普遍的な三角形が、我々が目にする現実の三角形が存在することを可能にしているのではないか」*2

だからといって我々は、この誘惑に乗せられることはない。(少なくとも現代の我々は)
現実の具体的な三角形が存在するために普遍的な三角形が実在していなければならないとは考えない。普遍的な三角形は、現実の多種多様な三角形から抽出され、すなわち心によって創られたものだと理解している。

  × 「普遍的三角形   ⇒ 具体的な三角形」
  ○ 「具体的な三角形 ⇒ 普遍的三角形」

だが、世界の成り立ちを考える場合、この誘惑に負ける。
我々が経験できるのは現実の三角形と同様に、この具体的な世界である。しかし、この世界から抽象化されて取り出された世界、いわば普遍的な世界(物自体界)が存在し、なおかつそれが我々の具体的世界を規定すると考える逆転現象が起こる。

私たちは机の上に置かれた花を見ている。
各自見る角度が違えば、見え方も異なる。異なった人の知覚風景に現われる花はもちろん、同じ人であっても、彼の知覚風景に現われる花は刻々と変化している。そのようにまったく同じ知覚風景の花は存在しないにも関わらず、我々はそれを一つの花だと認識している。その原理は三角形と同じである。多種多様な知覚風景の花から共通する要素を取り出し、誰にでも当てはまる一般化された花(花そのもの)を想定するからだ。

この想定は、我々の生活のあらゆる場面において有効かつ、正しい想定である。日常生活においても、我々は物自体を想定しているのが普通である。そうしなければ、生活などできない。テーブルをはさんで、私とあなたが見ている図面が異なっていると考えれば仕事などできない。だからそのように想定するのである。そして事実、私が見ている図面とあなたが見ている図面は同じものだろう*3。ただしここでの想定が、それが意味する範囲を超えて、「物自体としての図面が、我々の知覚風景に現われる図面を(脳を通して)作り出している、規定している」と考えれば誤りである。この誤った考えが、決定論や「脳が心(知覚風景)を産み出す」という奇怪な世界観を生む。

  × 「物自体 ⇒ 脳 ⇒ 知覚風景」 
  ○ 「知覚風景 ⇔ 脳」          
たとえ普遍的な三角形を想定することが数学に進歩をもたらしたとしても、その三角形が実在すると誰も思わないように、人間の認識を離れて実在する世界(物自体界)を想定することが科学にとって大きな進歩をもたらしたとしても、それが実在するとは考える必要はない*4。「実践として真である」と「認識論的に真である」を混同してはいけない。

*1:この能力こそが、現実世界の背後に普遍的な世界を想定する起源である。

*2:概念実在論

*3:なぜそう思うか? 後述

*4:物理学者はじめ、科学者は物自体のような形而上的な概念を用いることを徹底的に拒否するだろう。だが、そういいながらも、その根底には知覚風景を超えた一つの世界を想定しているのではないか? はっきりとは言えないので調べて見ないといけないな。